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N堂の備忘録

主に身の回りのことをエッセイ形式で。

ニューヨークの紀伊国屋で考えたこと

ニューヨーク、マンハッタンの紀伊国屋には、2階に漫画・アニメゾーンがある。

 

この2階のエリアはKawaiiCool Japanと呼ばれる日本のサブカルチャーを取り扱うというテーマだと僕は理解しているのだけれど、この階のことを、オタクゾーンと呼んでいる日本人にもよく出会う。

僕からしてみると、ただの漫画・アニメゾーンなのだが、確かに各々のタイトルを知らない人からすると、なにやらオタクの人が好みそうなものの集合体でしかないということは想像に難くない。

 

しかし、この時代にインターネットを使っていれば、多かれ少なかれアニメや漫画というものに出会い、作品名を知る機会というものもありそうなものである。

それでもなお、オタクという総称めいた単語を使う人と、そうでない人の違いはどこにあるのだろうか。

 

これは寛容さと関係しているのではないかと思う。異文化に対する寛容さ。

そしてこれは、いじりというもののルーツとも密接に関わっている気がする。

 

オタク文化は最初触れたときの刺激が強めであるがゆえに、寛容さがない人は受け入れられないのではないかと思うのだ。

今ほど市民権を得るまでは、2ちゃんねるや深夜アニメに興味を持っている人は近づきがたい人というイメージがつきものだった。むしろ、興味を持っている人たちは犯罪者予備軍という報道のされ方も珍しくなかった。

今は裾野が広がってきて、まとめサイトなども手伝って一気に市民権を得てきてはいるが、寛容さを持ち合わせていない人は、オタクに対する抵抗感をいまだに拭い去れないのだろう。

そのため、インターネット上で関連する情報を目にしたとしても、危険なものとしてシャットアウトしてしまうのである。寛容な人は、目にした情報がすんなりと頭に入ってくるため、オタクという総称でひとくくりにしない程度の理解度に到達する。

 

そして、誰かをよくいじる人は、オタク文化のことを知らないことが多い印象がある。

オタクへの抵抗感といじりという発想のどこかに、共通点があるのではないか。

 

いじりというのは、暗黙に共有されている前提からすこし外れていることにフォーカスを当てることで生まれる。自分の考えとずれているものに対して、ああそういう考え方もあるよね、と捉えるのか、ずれていてオカシイと感じるのかは、その人の寛容さに依存する。

寛容な人は、対象が異分子であるということに気づけないか、異分子が存在していることを気にしないので、いじるという発想が生まれないのではないだろうか。

 

オタクに抵抗感を示す人といじりをする人には、見知らぬもの、自分の持つ常識とずれているものに対して寛容になれないという性質が共通しているのではないかと思う。

 

でも、鶏が先か卵が先かみたいなところもある。

オタクだからいじられるのか、いじられるからオタク文化に救いを求めるのか。