備忘録

主に身の回りのことの備忘録。

生姜

1.生業とは何か
生業とは生活を営むための仕事のことだが、現代社会において今自分が携わっている仕事を生業だとみなしている人はあまりいないのではないかと思う。

学生向けの企業セミナーなんかに参加すると、ごくたまに、
学生「何のために仕事をしていますか?○○さんにとっての働く目的とは?」
社員「いや、飯を食べていくために決まってるでしょ。」
というやり取りを耳にすることがある。学生が聞きたかったのはそういうことではないのだけど、その社員にとって、その仕事は生業でしかないのである。

2.生業に殺される
この”携わっている仕事を生業だと捉える姿勢”はとても重要なのではないかと最近感じている。誰かが精神的に参ってしまい臥せっているという話を聞くと、特に意識する。
ご飯を食べるため、生きるためにやっている仕事で生存そのものが脅かされなければいけないほど生きていくことが困難な世の中ではないはずなのに、どうして病気になってしまうのだろうか。

この辺りは誰か専門家が研究していると思うが、生業というものが狩猟と農耕だった頃から歴史的にどのように変遷してきたかという観点から、個人的な予想を書いてみる。
原始の、人類が狩猟や農耕を生業としていた頃は、狩猟の最中に殉職してしまうことはあっても、生業そのものが誰かを死に追いやれるほど、生きることと働くことが分離されていなかったのだろうと思う。
狩る→食べるというように、働くことはまさに食べることだったため、働けば働くだけ腹が満たされ、心が満たされていたはずだ。
それが徐々に、働くことと食べることが直結しなくなっていった。自分の食べ物を自分で生産することは生業ではなくなり、食べ物を買うためのお金を稼げる生産活動全般が生業たりうるようになった。
結果、食べるためには、働く→お金をもらう→食べ物を買う→食べるというように、働くことと食べることの間にプロセスが2つも増えてしまった。すると、自分が食べる(生きる)ために働いていることを自覚するためには、狩りをしていた頃に比べて想像力を働かせないといけない。

労働の歓びは食欲を満たすことではなく、もっと別の精神的なものに、良くも悪くも昇華された。
そのため、働くことから精神的な充足感を得ることに失敗すると、仕事に価値を見出すことができなくなり、生業が働く者を追い詰めてしまう可能性がでてくるのだろう。最悪の場合、生業に殺されてしまう。

3.生業に殺されないために
素人の考察はさておき、では生業そのものに追い詰められてしまわないために、何をしたらいいのだろうか。狭義には、働くことから精神的な充足感を得ることに失敗した場合にはどうすればいいのだろうか。
それを考える上で、米国のサラリーマンの働き方はとても参考になるなと感じている。

米国のサラリーマンが職場に対して不満がある場合には、上司にすぐエスカレーションし、そこで解決されない場合にはさらにその上の上司にエスカレーションし、それでもダメな場合は人事部に駆け込み、それでも解決しない場合には辞めて違う会社に入るというアクションを起こす。
端的に言えば、精神的な充足感を得られなかった場合の切り替えがとてもうまい。

米国のサラリーマンはGeneralistよりもSpecialistが多い。そのため、自分が生業とする業務内容で自己充足感を得るために何をすればいいかを、自分自身でよく分かっている印象を受ける。そして、自分が生業とする業務を軸として、その軸に基づいて自分の働く環境を最適化するよう心がけているように見える。
もし今の職場に不満があるなら、変えようという行動を起こして、それでもダメな場合に同じ業務に携われる別な居場所をあらかじめ用意しておく。
そうすることで、生業そのものに押しつぶされてしまうことを避けているのだと思う。

日本の猛烈サラリーマンは、与えられた職務を組織が望む通りに全うしそれができなければ自分の汚点とする勢いで仕事に取り組んでいる人が多いのではないだろうか。その働き方は日本企業を大いに支えているに違いない。そんな日本人に、あなたにとっての生業はなんですかと訊くとどう答えるだろう。
日本のサラリーマンは、業務内容を生業とするよりも、サラリーマンという生き方そのものが生業になってしまっているのではないか。だからこそ、精神的な充足感を得ることに失敗した場合、職場環境を変えるだけではだめで、サラリーマンではない生き方への切り替えるという大きなハードルを超えなくてはならず、身動きがとれなくなってしまうのではないだろうか。

米国人のように、自分の生業を可能な限り具体的に定義して、今の生業のバックアッププランを用意しておくことで、生きるためにする生業に殺されることを避けられると思う。